2017年12月21日

記録写真と記憶写真

1220oboridani2013.jpg


10数年ほど前に始まり3年ほど前にピークを迎えたご家庭イルミネーションもついに下火になり見かけなくなった。
みなさん、どんなきっかけか家を飾り付けしながら三年ほどでピークを迎える。
一度はやってみたい・・・という気持ちはよくわかる。
そして「もういいっか」となる気持ちもよくわかるのである。
それが普通だ(^−^)

誰にも言われないのに続けているのはちょっとした変わり者である、っていうか最初から「やっちゃったね」と思っていたけど。

でもそれが写真家を満足させてくれるのだ。

見る者もないのに家を飾り立てる変わり者。

それを楽しくもないのに(むしろ撮影は苦痛)撮影していく変わり者(私だ)。

多かった年は、シーズン30件ほど。
そして毎年見ているとわかるのだが、「今年でこの家も終わりかな」と分かるのだ。

::::::::::::


さてよく記録写真「この町の数十年前の写真」として写真展をやっていたりするのだが、まったく見に行く気がしない。
記録写真ってなんだろう?

そもそもそんな写真があるのだろうか?

記録としてしか価値のない写真。

それはそもそも価値のない写真なのだと思う、っていうか後年それを見る価値があるのか。
撮影者はその時何を考えて撮っているのだろう?って思ってしまうのだ。
その光景になんの魅力も感じずに撮った写真または漫然と撮られた写真。
それを100年後に魅せられても何の感動もない。

そこを勘違いしてる人が多い。

だから記録写真なんてものは無いのだ。

そういうしかない写真に魅力はない。


私はその当時の記憶を呼び覚ます写真が好きだ。

撮る時点ですでに感動がなきゃ「撮り手」として意味がないし、「鑑賞者」として見る価値がない。

そのうえでそこに時間といものが積み重なっていくのだと思う。



私が撮った上の写真もデータを見ればもう4年前のものだ。

今はクリスマスを前に元のようにひっそりとしている。


撮り方の決まりは簡単。
フォトジェニックな構図を考えない。
最初に三脚を置いた場所で撮る。
見えたままの構図。
さっと行ってさっさと撮って帰る。
むしろ最初から記録的な撮影だ。
しかし記録写真にしようなんて1センチも考えてない。
写真家は傲慢なのだ。
自己満足の塊なのだ。
じゃなきゃ、意味がない。


しかしもちろんそれに魅力を感じて記憶に残していくのだ。

誰にも見とめられることなしに飾られている名もなき家、住んでいる方はそう思ってないはずだ。

だから撮る。

いったいどんな人が住んでいるのだろう?

私は撮られた写真に対してワクワクするのだ。

posted by tadakov at 02:19| 高知 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]