
前回、写真家になりたい!と自分で吐露したわけだが、(このブログは誰も見ている人がいないので、自分の自分に対する日記なのだ)正確には、その人が何かというのは、その人の生き方なのだ(と思う)。
結果的に世間が認知しなければ存在しないに等しい。
しかし存在しなかったかと言えば、そんなことないのだ(発見されてないだけ)。
いつか日の目をみることもある。
数年前に再評価された写真家でソール・ライターという写真家がいる。
1950年代ファッションカメラマンとして活躍した人だが、知る人ぞ知るの人だ。
彼の当時撮影したプライヴェートのカラー写真が話題になっている。
その瑞々しいい感性。
構図。
当時の光景が、古いものとしてでなく、新しい写真(永遠の写真)として目に焼き付く。
去年?神戸の美術館に見に行った時あまりの若い人の観覧者に驚いた。
イマドキ写真展が若い人であんなに賑わっていることはない。
もちろんその写真群は彼の晩年見出されたものなのだが、最近出版された写真集。
彼の没後だ。
ヌード写真。
これが素晴らしい。
もちろん生前彼はこんな写真を発表するつもりじゃなかった、できなかった、のだろう。
いやあ、これは傑作なのだ。
私のお宝写真集の一つだ。
そしてヴィヴィアン・メイアー。
生前15万枚もの写真を撮りながら一切発表してなかった女性。
紛れもなく写真家だ。
続々と写真集が出版されているのだが、素晴らしい。
20世紀の最大の写真家とまで言われている。
彼女が生きている間誰も知らない。
1926年2月1日生まれ2009年4月21日没。
彼女は生前誰にも見向きも去れなかった(彼女自身が世間を拒んでいた)が、彼女の功績は写真史に燦然と輝くこととなった。
彼女は自分が撮りたい写真を撮っていただけ、ただそれだけだ。
さて俺はどうなのかと胸に手をあてるのだ。
自分は写真家ではないかもしれないが、写真が好きなのだ。
写真を撮ってもいる。
それがオシゴトでもある。
だがオシゴトの写真は作品じゃない。
自分の撮った写真を見て喜んでもらいたい。
これは邪念だろうか。
自己満足に浸りたい。
だって作品って究極自己満足なのだ。
他人がどう評価しようと関係ない。
また評価されても関係ない。
作家は欲望の塊だ。
何処まで行っても満足するということはない。
満足してしまったら終わりだ。
煩悩の塊だ。
posted by tadakov at 00:35| 高知 ☁|
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